ブランドのネームバリューの重要性について

ブランド品

過ぎたるは及ばざるが如し。

と、偉い人が言った。
諺と呼ばれるか、名言と呼ばれるか、ボーダーはどこだろう。

パンがなければケーキを食べればいいじゃない。

ここまでのくだりに深い意味はない。

要点がぼやけそうなので話を戻そう。

過ぎたるは及ばざるが如し。

結論から言うと、今回書いているのは「ファッションにおいて中庸であることは重要、少なくともぼくはそう」みたいな話だ。

ブランド原理主義の是非

ブランド物が好きな人は多い。
その中にもいろいろなジャンルのブランド物好きがいる。

ブランド物が好きな人のパターン例

ルイヴィトンのモノグラム
例えば、ファッションには大して興味がないが、その足りない知識やセンスを補うためにブランド物を全身にちりばめる人

このパターンはブランド物が好きというよりは、お金はあるがそれ以外のものは持っていないから、やむを得ずこうしているみたいなパターンも多い。
お金も知識もセンスもない場合は、しまむらで買った服しか着ないのになぜかバッグと財布はブランド物じゃないと嫌だ、みたいなちぐはぐな価値観のおばさん、もとい中年女性になりがち。

例えば、ファッションが大好きで、注目されたいがためにブランド物をアピールする人

これに関しては今の流行も関係している。
今で言えば人気ブランドSupremeやOFF-WHITE。
supreme jordan
これらはブランド名をプッシュしそれ自体がデザインとして成立するような服が多いので、自然とブランド物を着ているアピールになっている。

と、2つ例を挙げたが、ブランド物というのは人気があるのでブランドたりえるのである。

具体的に人物を挙げてみる

シソンヌ長谷川
これはテレビ用のキャラクターとしてやっていた可能性も高いので、話半分で聞いて欲しいのだけれど、お笑い芸人シソンヌ長谷川がダウンタウン浜田を今風ファッションに改造するという番組をやっていた。
結構前。

そこで長谷川が着ていた服は、ロング丈のTシャツの重ね着、リックオウエンスのMA-1、トムフォードのめがね、ダークシャドウのタイトジーンズ、イージーブースト350、大体こんな感じ。
かなり分かりやすく今時かつブランド感のあるチョイスだった(調べてみたら放送が2016年の頭だったので、今時ってのもおかしいんだけれど)。

視聴者の意見は、「長谷川お洒落」というものもあれば「流行ってる物着てるだけで似合ってないし、浜田のほうが自分を分かった服選びをしている」というものもあった。
どちらかと言えば後者のほうが多かった。

ぼくは「芸人ってそんなに儲かるのかな、シソンヌクラスでもこんな服着るのか」というような感想。

過ぎたるは及ばざるが如し。
また出てきたよこれ。

ここまでコッテリとブランド感があって許されるのは、一握りの人間だと思う。

閑話休題

以前も書いたような気がするが、「ちょっと汚れたくらいで機嫌が悪くなるような価格の服は身の丈にあっていない」というような話。
たまに、そこ以外にお金の使い道を見失った根暗、童貞の大学生が全財産を服につぎ込んだりするけれど、端的に言えば闇だと思う。

まあ人のお金の使い方にとやかく口を出すほど偉い人間ではないから、好きにしたまえ、とまとめるよりない。
健全ではないんじゃないかな、というくらい。

でも、ブランド物を選ぶのが悪いことだとは思わない。

ネームバリューは必要か?

先に言う。必要

恣意的に言えば、例えばナイキのエアマックス1。
エアマックス1
これはもうロゴであるスウッシュがデザインとして必要不可欠である。
ここがブランクだったり、もしくは何か別のデザインが入ったら、もうそれは別のスニーカーだ。

しかしスウッシュがデザインとして何故成立するのか、というとそれはぼくたちが既にナイキというブランドを認知しているからに他ならない。

ちょっと違う例も挙げてみる。
アディダス×アレキサンダー・ワンのアパレル。
アディダスとアレキサンダー・ワンのコラボ
トレフォイルロゴをひっくり返したデザインが、どの服にも大体ついている。
これがなぜデザインとして機能するのか。はいもう言いたいことはお分かりですね。
ぼくたちがアディダスというブランドを認知し、トレフォイルを認知しているからだ。

トレフォイル自体がデザインとしてアイコニックなところを、コラボレーションでさらにひと捻り加えている。

これはもう完全にブランドの存在がありきのデザインである。
これがユニクロではそうはいかない。ユニクロの四角いロゴをひっくり返してTシャツに載せたところで、それが評価されるフィールドは少なくとも2017年現在ない。

このように、無意識下でブランド物(そもそもブランド物の定義が曖昧だけれど、なんとなく雰囲気で)のネームバリューはぼくらの感覚のどこかに根差しているのである。
また、そうでないとおかしいのだ。

ブランド物を拒否するレトリック

シソンヌ長谷川がブランド物大好きな人だとすると、逆にそういったものに拒否反応すら示す人がいる。
「流行とか関係なく長く使えるものだけ選ぶ」とかなんとか、そういう感じの。

これはもちろん、非常にすばらしい価値観である。
エコであり、質実剛健だ。

こういうのが加わってくるとちょっと胡散臭くなってくる。
ブランド物とか興味ない。自分が好きなものだけ選ぶ
果たして本当にそうなのか。

ヘインズの赤パックTシャツを買うとする。

となりに、全く同じものが、ノーブランド品で置いてあったとする。しかも少し安い。
このときに手にとって触れる状態だと仮定して、ノーブランドのほうを選べるか。

ぼくは選ばないし選べない。ヘインズという名前を信用して、既に体験として買ったことのある赤パックを選ぶだろう。

ヘインズがブランドかっていう話はともかくね。

そのレベルで審美眼が備わっている人だったら、もう「ブランドには興味なし」って言っても許されると思う。

そうでなければ、インディーロック好きと同じ、ただ単に人と違うことが好きってだけ。
ブランドを選ばないという形でブランドに踊らされているように見える。

まとめ

結局ファッションというのは、ある程度は見た目の構築であるものの、多少の見栄やステータス感を表現するものなのだ。
だから、その価値やクオリティを代弁するブランドのネームバリューは、マストではないが否定することはできない。

ブランド物大好き!
も、
ブランドなんて糞食らえ!
も、どっちでもいいけれど、過ぎたるは及ばざるが如し。

ちょうどよく、逆らわず、流されず、適当に楽しめばいいじゃん、服なんか。

適当と言いながらこんなエントリをわざわざ書いて、ごちゃごちゃと考えてしまうのがぼくである。

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