生命のデザインについて
これは今週のアフロ田中から抜粋した言葉だ。
人間の生命のデザインとは?
なお『しあわせアフロ田中』の若干のネタバレを含むので神経質な方はご遠慮願いたい。
誰の為に服をお召しになるのですか?
「お客様は…誰の為に服をお召しになるのですか…?」
「…へ…誰って……自分…寒いから…」
「それは…原始人の発想です。」
「…じゃあ…暖をとりつつ…カッコつける為に…かなぁ…」
「他人にカッコイイと思ってもらう為に…服を着るのですか…? 自分の為に…お金を使いませんか…?」
ビッグコミックスピリッツ第50号 しあわせアフロ田中より
今週のスピリッツ掲載『しあわせアフロ田中』の田中とショップ店員のやりとりである。
マンガで声を出して笑ったのは久々。
アフロ田中は『しあわせ』以前に『高校』『中退』『上京』『さすらい』と続く人気タイトル。高校生だった田中は既にアラサーになっている。
大好きアフロ田中。
アフロ田中についてはこれくらいにして、話を戻そう。
スタイルに宿る魂
世の中の流行として打ち出されたデザインに対し、それに干渉されない個人の持つファッション感覚を「スタイル」と定義する。
それに類することはたびたび触れてきた。
「誰の為に服を着るのですか?」
今週のアフロ田中は、その根源的とも言える疑問提起をしている。
自然が作り出す造形
アフロ田中に出てくる謎のショップ店員はこうも言う。
「生命のデザインはオリジナリティーの爆発」。
今でこそ見慣れているが、カブトムシやキリンなど、初めて発見した人は度肝を抜かれる容姿をしていたのでないか、と。
自然が作り出すものこそ、アートの局地ではないか、と。
もはや常人の想像がつかないところまで突き抜けたものこそ、我々の作りたい服なのだ、と。
一部はぼくの見解で、謎のショップ店員が言語化したこととは若干異なるけども。
確かに一理ある。
自然が作り出す造形は美しい。
SBRで言うところの黄金律である。無限のエネルギー。
が、ぼくは、それがファッションの局地であるとは思わない。
ちなみにこれが謎のショップ店員の言う生命のデザインである。
デザインとアート
デザインとアートは違う、という教訓がある。ここで言うデザインは狭義のものだ。
ざっくり言えばデザインはユーザーの目線で作られるもので、アートは作る側の自己表現。
使用用途が先にあるか、後からくるか。
例えばWebの話だと、美しいUI、ストレスのないアクセシビリティというのはデザインの完成度を押し上げる。
が、作り手の伝えたいことだけを無秩序に詰め込んだものは、アートになりえてもデザインとしては三流で、要するに読みづらいサイトになる。
読みものはデザインが重要だ。
じゃ、服はどうなんだい?
デザインなのか? アートなのか?
これがどちらとも言えるし振れるからファッションは難しいわけだ。
無人島のレトリック
これはわざわざ説明するまでもないが、たとえばアウトドア系の服はデザインの上にあるし、モード系の服はアートの上にある。
どれを選ぶのかなんて個人の好みでしかない。
そしてファッションというのは衆目の中で成立するものだから、「自分の為」に服を選んでいるにしても、「無人島でファッションに気を遣うか」というレトリックはついてまわる。
これは難しい論題だ。
だから田中の言う「防寒のため」は、いっそ清々しい。無人島だろうとブレないに違いない。
この問題は楽典を追いすぎたミュージシャンが、曲を和音やベースラインを分離させて理解しながら聴いてしまうのに似ている。
要するに、知識がフラットに捉える邪魔をすることもある、という話だ。
だから人間は美しい
平凡な服を着るか、芸術的な服を着るか。
これはぼくの理解だと、どっちを選んでも「生命のデザイン」になりうると思う。
アフロ田中の話にすれば、「生命のデザイン」がされた服を着ることが人間のデザインなのではなく、そもそも、どんな服を選ぶのか、という前提が既に人間のデザインの一部なのだ。
そうぼくは理解した。
選択によって生まれるスタイルこそが人間の生命のデザインである。
だから人間は美しい。
いまどんな夢をみる どんな服をきる それだってお前の
どんな恋人がいて どんな音楽きいても それもお前の
今更言うのもなんだけれど、アフロ田中はがっつりギャグマンガなので、こんな問題提起はしていない。
それに付随し、ぼくがだらだらと思考で遊んでいるだけだ。