ファッションの相対性と絶対性について

大学生のテンプレファッション

春から大学生の君へ贈る!
これを買っとけば間違いない私服8選!

みたいなエントリを書こうと思ってやめた。

考えれば考えるほど、服というのは相対的でもあり絶対的でもある。

ファッションの相対性

前にもちらっと何かで書いたが、
「人の目なんて意識してない、自分が着たいものを着る」
とのたまう人は、断じて嘘つきだ。

人の目を気にしていない人が、自分以外の人間が一切いない場所にいたら、服に気を遣うだろうか。地球最後の生き残り。
極端過ぎるなら、部屋着でもいい。部屋着でも外出するのと同等レベルで服選びを楽しんでいるなら、「人の目を気にしない」というレトリックを使っても許される。
でもせいぜいちょっとイケてるスウェット、パイル地の高級パジャマといったレベル。

当然「家でごろごろするための服と、外を歩くための服では目的が違う」という意見もあるだろうが、家では楽な格好がしたいというのならば、なぜ外では楽な格好をしたくないのか。
もちろん楽さ快適さよりも優先されることがあるからで、家になく外にあるものと言えば他人の目なわけだ。

人の目がないところでは服選びも雑になる、これは間違いない
なんやかんや言っても、人からの評価ありきなのだ。これが相対性。

ファッションの絶対性

よくわからない服

髪型も服も意味がわからないレベルだけど、よく言われる服って自己満足。これは本当にそう。
でもそれを言っちゃうと話が進まないので、もうちょっと考えてみる。

ダサい格好、いけてる格好、お洒落な格好、そういうものは時代によって移り変わる

でも評価をしているのは世論で、つまりマジョリティ。しかしたとえマイノリティであっても本人が強く気に入っているのであれば、それはもうそれでいいのではないだろうか。
ぼくにとってダサすぎてありえないものでも、本人が本気で格好いいと信じているものに、どう言葉を尽くしても届かないと思う。

たまに突き抜けている人がいる。
先の画像は雰囲気から察するに、「流行も分かっているけど、あえて奇抜な格好をしてみた」という空気が窺える。これは突き抜けていない。
突き抜けたファッション
ここまできたらもう突き抜けていると言っていいだろう。
媚びていない。モテる気がない。お洒落だと思われる気がない。

本人がこれが好きだというのであれば、それは絶対的なものだ。
「あえて奇抜な格好をしている自分」に酔っているのであれば話は別だけど、本人にはそれがスタンダードであり、むしろ周りがズレて見えているのだとしたら、それがファッションの絶対性だ。

格好いい格好悪いは多数決だが、多数決を無視する生き方もまた面白いのかもしれない。

こんなことを考えたきっかけ

一番初めに書いたような「間違いない8選」的なタイトルのエントリはよくあって、ぼくも見る。
ただこれの危ないところは書いている人自身が果たして間違いない人なのかというところ。誰でも自由にブログを発信できる昨今。
ぼくは正直「これ書いてる奴絶対ダサいよな~でもこれ読んでなるほどって思っちゃう人たくさんいるんだろうな~」とよく思う。

当然、今このエントリを読んでいる人も同じことを考える権利がある

ぼくは奇抜な方向には向かわないが、流行や時代背景より自分ルールの強い部分がある。
ファッション誌を薄めたようなエントリを扇情的なタイトルで発信する、それも全然面白くないけど自由で、ぼくのエントリを読んで確かにななんて共感するのも自由で、でも後者の人が多いとありがたい。

まとめ

ぼくは大学中退しましたとさ。

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