先月末に更新してから、だいぶ間が空いてしまった。
まあ、今後めちゃくちゃペースアップするってことはたぶんなくって、もっともっとゆるい感じの更新になるだろうという気はする。
ここ最近考えていることをまとめてみる。
理髪師とのやりとり
白Tにコーチジャケットにチノパンにバンズにメッセンジャーバッグという出で立ちで
「ハルくんは一貫してるなあ」みたいなことを言われ嬉しかった。
無人島とファッションについてのレトリックを思い出す。
「ファッションは他人の目なんか関係ない」と言う人間は、果たして無人島でも服にこだわるのか、という例のあれである。
自己満足ではあっても、やはりファッションは他人がありきだ。
クローム、ティンバック2、アンタイヒーロー、バンズ、こういうミッシングリンクに触れられたらうれしい!たのしい!なわけ。
メタリカが服のブランドだと思っている青二才とはこんな話はできないわけ。
結局のところ、ぼくにとって服はコミュニケーションツールの要素が強いのかもしれない。
伊賀大介が言ってた「これ(真島昌利のTシャツ)着てると友達ができるんス」にも近い。
「人とコミュニケーションを取るために服を選ぶ」という考え方はしていない。
それは所謂脱ヲタ(表現古いか?)的な思考だ。
「自分が好きなもので人と繋がりたい」
他人に合わせるためではなく、自分と同じ感覚の人を見つけるためって感じかな。
やっぱり、人が好きなんだろう。
漫画家とのやりとり
たとえばぼくの友達に漫画家がいる。
ただ、どんな漫画を描いているのかなど、恥ずかしがって教えてくれないので、よくわからない。
それひとつで生計を立てているそうだ。
「自分が好きだからやっているのか、人から認められるためにやっているのか、仕事だからやっているのか、分からなくなる」と言っていた。
元々は好きだからやっていたはずなのに。
これはぼくも音楽を作っていたから、結構理解できる。まあぼくの場合は仕事にするところまでいけなかったから、羨ましい悩みと言えばそうかもしれない。
ぼくは「人を楽しませることがしたい」っていうところに帰結したから、自分のエゴももちろんなくはないが、世間の評価と自分の評価のギャップに苦しんだりは少なかった気がする。
何事も好きが高じるとどこに向かっているのか分からなくなることがある。
他人がありきの趣味は、それ故の悩みを生む。
ひとりで完結できることだったら、例えばけん玉が趣味ならば、無人島でもやるだろう。
ぼくは服と世界(ワールドワイドという意味ではなく、日常を生きるこの場のことだ)の折り合いがついているけれど、極端なケースでは女装が趣味ならば世界に認められたいけれど奇異に見られたくはない、なんてギャップがあったりするのかもしれない。
ぼくが書くと冗談みたいになってしまうけれど、それにめちゃくちゃ悩んでいる人だってきっといる。
そんな中、床屋での会話や漫画家との会話で、好きなことを好きなままでいられるのがシンプルに楽しいことだと再認識した。
自分の話(あるいは、ずっと自分の話)
服は好きだ。それについて色々こだわりもある。だからこんなブログをやってもいる。
開設した頃と比較すると明らかに「世の中ダサいやつばっかり! 魂がねえ!」みたいな謎のフラストレーションは減っている。
まあそれは人には丸くなったとか言われる。自分でも最近そう思う。
悪く言えば自分に関わらない人間のことなどどうでもよくなったのかなとも思うし、よく言えばダイバーシティの許容か。
もう一個ブログをやっていて、そっちは服とかの話はしていなくてもろに雑記なんだけど、そっちで少し触れた話で
ツイキャスの話。
ツイキャスでだれでもコラボをやったのも割とゴールドエクスペリエンスだった。
「こいつ絶対合わないだろ」みたいなプロフィール情報のやつとも、話してみれば案外楽しかったりする。
現代では何かと文字での情報が先行してそこでまず選り好みしてしまうが、考えてみれば、学生の頃なんて好きなスポーツも音楽も服も同じじゃないやつらとめちゃくちゃ楽しく笑い合っていたのだ。
文字でのやりとりなんて、結局人間性のほんの一片でしかない。
だからダサいとかおかしいとか思うことがあっても、まずは「でもそれがこいつの全てではない」と考える余裕が出来た気がする。
というわけで、リアルでハードの情報として服はぼくにとってコミュニケーションツールであるし面白いものなのだ。
それには文字とかネットの中にない何かがきっと隠れている。
まとめ
漫画家という人種は映像記憶というか昔の思い出を克明に覚えるのに長けているらしい。
昔のダサい服を着てたぼくなんかも記憶されているそうだ。
ツイ消しみたいなことはできない。
やっぱ、デジタルとは違うんだよな人間って。