音楽の趣味が、いい。
の反対は
音楽の趣味が、悪い。
いい音楽とはなんなのか
こんなことを割とよく考える。
「売れているものがいいものなら、世界一うまいラーメンはカップラーメンだ」
甲本ヒロトの言葉が頭をよぎる。
大いに頷けるし、オリコンやグラミーがどんだけ偉いのかって話。
でもこれって「売れているからいいものとは限らない」という意味で「売れているからいいものではない」とはならない。
「オリコンチャート入りしている音楽は、すべからくクソである」
いやいや、ことはそう単純じゃないのは、きっとあなたも知っているはず。
この辺が音楽の難しいところで、いい悪いの明確な基準なんかないのだ。
100mを何秒で走れるか、とか、たくさんゴールを決めたら勝ち、とか、そういうルールは一切ない。
だから物差しは自分の中にしかない。
ファンの数は指標にはなる
たとえばぼくが嫌いなミュージシャンAがいて、ファンもいるがアンチもいる。
メディアが「デビューアルバムの売上がン万枚を超えた」と言い、ぼくを含めた音楽通ぶった連中が「あれはハイプだ、クソだ」と言う。
よくあることだ。
これが、アンチがぼくだけで、世界中のみんながAを好きなら?
まあ現実にはこんな極端なことは起こらないだろうけど、もしそうなれば、ズレてるのはぼくひとり、ということになるはずだ。
こんな感じで、音楽は受け手がいないと存在できない。
聴いて、歌って、演奏して、踊って、これらをやる人がいなくなったとき、CDはカラス除けにしかならない。
だからぼくは自分の好きでない音楽でも、売れているものには売れている理由があるのだと考えてみる。
たくさんの人に好まれるものは、ざっくり言えば「いい音楽」になり得る。
過去は否定できない
それを分かりやすく証明しているのが、時間だ。歴史だ。
時代を超えて愛され続けるもの。好きか嫌いかは置いておいて否定はできない。
だから過去からいいものを探してくるのは簡単だ。現存しているものは、だいたいいいもので、ろくでもないものは既に駆逐されている(これもいい音楽が必ずしも残る、ということとイコールにはならない)。
流行と本物の分別
難しいのは、現代の音楽。
ぼくはそれらに向き合うときに無意識で「これは時代を超えていけるか?」と考える。
キッズがいっとき夢中になり、数十年後、いや数年後にでも忘れてしまうようなものは、「いい音楽」というよりは「いい玩具」だと思う。
音楽のフォーマットを使った、一過性の流行。ホストのコールの歌なんかをリリースするわけ。
みんなハイテンションで聴いて、それなりに売れるかもしれないが、言うまでもなく音楽として優れたものではない。
現代に生きているぼくらは、チャック・ベリーよりも音楽に詳しい
ビートルズは、屋上ゲリラギグをやって、解散した。
その頃には、アークティック・モンキーズも、スクリレックスも、Mr.Childrenも存在していなかった。
が、ビートルズの音楽は今もすぐ手の届くところにあるし、ぼくたちはアークティックだってスクリレックスだってミスチルだって、聴ける。
ぼくは洋楽通もロキノンフリークも、どちらも音楽の趣味がいいとは思わない。
いい音楽は、時代を越え、国境を壊す。
聴いたことのないインドの音楽はもしかしたらめちゃくちゃクールかも。
そういう、未知なるものにへのアンテナが、音楽へのセンスだと思う。フットワークの軽さ。
洋楽なんて何言ってるかわからない、邦楽なんて退屈、そういう括りで音楽を聴いているうちは三流。
ロックでもジャズでもブルーズでもソウルでもヒップホップでもテクノでもハウスでもポップスでも、それを自分の物差しで計る前に拒絶するのは、ぶっちゃけ、ダサい。